拙著は 1992年、少部数の自費出版として刊行したものである。広告を一切しなかったためもあり、あまり読まれることもなく、絶版となった。15年前のものではあるが、そこに書いたことは現在もなお有効であると筆者は考えている。
なぜなら、手塚治虫についての評論・研究はそれ以後あまた出版されてはいるが、それほど進展しておらず、拙著で指摘したいくつかの点においては、むしろ偏った方向に向っているかに思われるからである。
敢えてネット版として再現する所以である。 また、拙著は研究書として書かれたため、一般の読者には分かりにくい部分、説明不十分と感じられる部分が多かったと思われる。ネット版では、そのあたりも考慮に入れて、より分かりやすく説明をしてゆくつもりである。批判なり質問なりをコメントして下さる方にはできるだけ解説をしてゆきたいとも思っている。ともかく、幻の拙著をネットに晒すことで、手塚研究の問題点を再確認することは意味のないことではなかろうと信じて、書き続ける予定である。
スポンサーサイト
- 2007/07/23(月) 05:13:47|
- マンガ評論
-
| トラックバック:0
-
| コメント:1
本書は、現代ストーリーマンガの成立を考察する上で逸することができない手塚治虫の、特に昭和 20年代から 30年代にかけて果たした役割を明らかにするための一試論である。
昭和が終り、元号が改まって間もない 2月 9日、手塚治虫は亡くなった。それから三年が経過した。その間、死去直後の新聞、週刊誌や月刊誌の追悼特集を始めとして、手塚治虫に関するおびただしい言説が生み出され、巷に溢れた。それは著名な創作家の死後恒例の追悼特集を遥かに超えた広い範囲からの反応だったことで異例である上に、その後も手塚治虫についての著作がいくつか刊行され、作品のリヴァイヴァル出版が相次ぎ、それはまだ今も続いている。マンガの一般読者にとってやや忘れられがちな存在となっていた手塚治虫が、あたかもその死によってジャーナリズムの寵児となって脚光を浴び、華々しく再生したかと見紛うようであった。そうした現象は手塚治虫という存在がいかに偉大であったかを物語るものであろうが、語られた言葉の膨大さに較べて、内容の貧弱さは対照的であり、マンガを語る言葉の未成熟を印象づけたにすぎなかったように思う。手塚治虫については生前、既に多くの論評がなされていたためか、その死によって更に広範囲の人々の手塚観を知ることができたとは言え、どれもどこかで聞いたことのあるような言葉が多く、瞠目すべき見解は殆ど見当たらなかった。そこには、マンガなのだからこの程度でいいだろうといった手加減があるように思われる。手塚治虫は死後、まだまともには論じられていないというのが私の実感である。しかし、悪いことには、十\分に論じられないままに、時の経過につれ手塚治虫像は少しずつ固まってゆき、今また新たな「手塚神話」を形成し、一つのステレオタイプに嵌め込まれてゆきそうな気配がある。そこで、これまでに積み重ねられてきた手塚論を吟味し、先入観を捨てて、正確な認識の上に立って、手塚治虫を論じなおすことが何より必要であろう。そのための問題点を指摘することもまた、本書の課題である。
- 2007/07/23(月) 06:58:36|
- 手塚治虫
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
1
手塚治虫が現代文化に果たした役割については、これまでにも多くの論評がなされ、その功績の大きさはある程度一致した評価がされているかに見える。しかし、その殆どがマンガ文化の枠内で語られ、正しいけれど根拠のない断定になりがちである。例を挙げてみよう。
「手塚治虫は戦後、日本の漫画に革命をおこしたことで永久に記憶されるだろう。」(注 1)
「わたしはつねづね彼〔手塚治虫〕を、戦後日本でもっとも重要な役割を果たした人物のひとりだと確信していた。」(関川夏央氏)(注 2)
マンガ文化の枠を越えて、より広い視野で語られる場合にも同じく断定的になることが多い。
「手塚さんは、文字の文化から「マンガ」をはじめとするイメージの文化への大転換を成し遂げてしまったという意味で、日本の知的文化を戦前のものとは決定的に違うものに変質させた。」(山口昌男氏)(注 3)
「特に手塚治虫については、ある意味で象徴的な役割を果たしているんじゃないかと思うんですね。〔…〕手塚治虫のマンガというのは、戦後のマンガ、映像、アニメとかも含めて新しい文化の一つのきっかけになったわけです。」(森毅氏)(注 4)
それぞれに的確な指摘だが、なぜそうなのかは述べられていない。手塚治虫を語るとき、つねに欠けているのがこの点だ。戦後文化全体のなかに手塚治虫を位置づけた上で、手塚治虫のしたことは何かを明らかにすることこそ、手塚論の前提として不可欠であろう。
[第1章 手塚治虫の戦略]の続きを読む
- 2007/07/26(木) 02:57:44|
- 手塚治虫
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
まず、次のような仮説を立ててみる。これは戦後という時代を概観できる今となっては、あらゆる事象の前提として考えられるものである。
戦後四十余年の日本の社会で、文化的な面で象徴的な役割を担った人物は二人いる―即ち、昭和天皇と手塚治虫である。昭和天皇は伝統的文化に加えて明治以後の近代的文化の象徴として、手塚治虫はマンガやテレビなど現代的文化の象徴として。(注5)とりわけ昭和20年代から30年代にかけてのこの二人の人物の存在が、その後の日本文化の性格を良くも悪しくも決定づけたのである。手塚治虫が「マンガの神様」と呼称されることがあった(注 6)のは、無意識のうちに人々がそのことを感じ取っていたからにほかならないし、手塚治虫が昭和天皇の死去の直後に死んだことで、多くの人はそのことに気付いたはずなのだ。手塚治虫は昭和の終焉の一ヵ月後に死に、その折、「本当の生年」が昭和3年であることが明かされた。昭和天皇の即位の礼の年、即ち昭和天皇「誕生」の年である。月も同じ 11月、偶然ではあるが暗示的だ(注 7)。
手短かに言ってしまえば、昭和天皇が象徴するものは制度となった文化であり、手塚治虫の象徴する現代的文化とは、それに入り込めないでいたもの、そこから排除されつづけたものである。但し、手塚治虫は「思想的に」昭和天皇の対極にあったわけではない。むしろ、昭和20年代には同じ方向―アメリカに目を向けていた。アメリカとの関係を通して二人の象徴が日本の文化的土壌を支えたという点では、その役割はよく似ていると言っていいかもしれない。
手塚治虫は単に戦後マンガ界の第一人者であるという程度の天才ではなく、時代の文化を創りあげた、戦後日本で「ただひとりの天才」なのである。ことがマンガであるため、問題の重大さが一般には十分理解されていない。戦後四十余年は活字媒体による思想の時代だと思っている人が多い。しかし、それらは戦前から引き継いだものにすぎず、戦後日本が生み出した思想は一つもない。すべては既にあったものだ。現代とは映像やら音楽やらの感覚的時代、無思想の時代である。無思想こそが現代的メディアの特徴の一つなのである。それを手塚治虫は体現したのだ。
手塚治虫は決して思想家ではない。何かを問いかけたり、何らかのメッセージを伝えるためにマンガを描いたのではない。手塚治虫は真の天才だからこそ、無思想なのである。ちょうどモーツァルトが真の天才であったのと同様に、手塚治虫はその存在が一つの思想であるかのような一個の単純な精神である。手塚治虫の精神の中核にあるのは巨きな空白、限りない空間それ自体であるような何ものかであり、今までにない何ものかを体現した精神であるから、既成のどのような言葉でも表すことはできない。唯一の漫画家という以外には何とも規定できない存在に対して天才という陳腐な言葉も漠然としていて似合わない。その後、その何とも規定できない存在を説明しようとして、戦後民主主義だの、ヒューマニズムだの、ペシミズムだの、客観的視点だのという言葉がまとわりつくようになり、対象が持つ原初の空白は見えにくくなっていったのだが、作品はそれらの言葉を超えて、つねに現実を幾分か離れたところで、軽やかに無邪気に動きつづけている。それは「無思想という思想」ではない。手塚治虫ほどの希有の知性と能力を欠いていたとしたら、ただ「何にも考えてない人」と言われるような意味での無思想なのである。無思想はまた、手塚治虫だけのものではない。次第次第に蔓延してゆき、すべてを駆逐するかに見えるそれは、手塚的現代文化の特徴の一つである。
手塚的現代文化のもう一つの大きな特徴は「モノセックス」である。それは性差への無関心(または倒錯した関心)、通常の男女関係の拒否などの形をとる。従来、手塚治虫の作品を論じるとき、両性具有とか、宝塚歌劇の影響とかが言及されたり、手塚治虫は女が描けないと批評されたりしたことは、手塚治虫が現代的文化を先取りしていたのだと考えるべきだ。
手塚治虫は男は描けただろうか。男も女も描けなかったのである。「スポ根もの」と称する男の汗の臭いのする世界に手塚治虫は無縁だったし、青年向けマンガで失敗作が多いのもそのせいである。影のない虚構の、永遠の少年の世界―それが手塚的文化の洗礼を受けた者にとっての理想の環境なのである。
[第1章 2]の続きを読む
- 2007/07/27(金) 21:41:11|
- 手塚治虫
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
さて、昭和21年から29年にかけて昭和天皇の全国巡行が行われている時期、手塚治虫は何をしようとしていたのか。
本稿は手塚治虫のマンガ歴を探るのが目的ではないが、念のため、マンガ家としてデビュー以後の主な、作品リストを挙げておく。
昭和21年 「マアチヤンの日記帳」
昭和22年 『新宝島』 『キングコング』 『火星博士』 『怪盗黄金バット』 『怪人コロンコ博士』
昭和23年 『地底国の怪人』 『魔法屋敷』 『森の四剣士』 『大空魔王』 『月世界紳士』 『ロストワールド』 『妖怪探偵団』 『ジャングル魔境』 『仮面の冒険児』 『一千年後の世界』 『ターザンの秘密基地』 『吸血魔団』 『流線型事件』
昭和24年 『拳銃天使』 『奇蹟の森のものがたり』 『有尾人』 『メトロポリス』
昭和25年 『ふしぎ旅行記』 『ファウスト』 『平原太平記』 『漫画大学』 「タイガー博士の珍旅行」(連載) 「ジャングル大帝」(連載)
昭和26年 『来たるべき世界』 『珍アラビアンナイト』 『化石島』 『バンビ』 『少年探偵ロック・ホーム』 『ジャングル大帝』① 「アトム大使」(連載)
(リストを書くのはけっこう面倒なので後回しにします)
赤本マンガの流行作家から有名少年誌の人気マンガ家へ―その数年のうちに手塚治虫は自己のすべきことを明確に意識し、ごくさりげなく易々と成し遂げてしまった。それは簡単に言えば、自己の方法をストーリーマンガの主流にするという野心である。もしそれが成功するならば、手塚的方法を無視する既成のマンガ家は淘汰されてゆくはずだ―そのことをある程度であれ予感していたのは手塚治虫本人だけだろう。今までにない新しいものを描くという意志は、中学時代の習作『ロスト・ワールド』(注 8)の冒頭に書かれた「これは漫画に非ず 小説にも非ず」というところに既にうかがえるが、デビュー後、どのようにして自己の方法をこれからのマンガの方法として広めてゆくか、その苦心のあとをあらまし辿ってみよう。
- 2007/07/30(月) 16:10:16|
- 手塚治虫
-
| トラックバック:1
-
| コメント:0
初期 B6と言われる描き下ろしB6判単行本は、昭和21年の『新宝島』から昭和28年の『罪と罰』に至る30冊以上の作品を指す。それら一冊一冊が方法的な試みとなって、次第に「手塚マンガ」が他の赤本マンガとは一味違ったものとして読者に認知されはじめるのだが、その独自のドラマトゥルギーがはっきりするのは昭和23年の『地底国の怪人』、更には同年の『ロスト・ワールド』あたりであろう。しかし、コマ割りを始めとする手法的な完成を伴った描き下ろし長編マンガの方法を体得するのは、翌24年の『メトロポリス』と考えるのが妥当と思われる。(注 10)模索しながら作品を描きつづけるうちに、手塚治虫のなかに一つの明確な意志が生まれたに違いない。即ち、これまでの「漫画」とは違う、今、氾濫している赤本群とも違う新しいストーリーマンガの方法の確立、そしてそれをこれからのマンガの主流にすること。「あしかけ十ヶ月」をかけた「労作」とあとがきに書いたことは『メトロポリス』への自信の表われだろう。雑誌連載をまだ始めたばかりの段階の昭和25年に『漫画大学』が描かれる意味はそこにある。後の『漫画少年』連載「漫画教室」に意図において直結するこの風変わりな作品は、短編集というより、さまざまのマンガを見本として示し、それらを解説・批評しつつ、同時にマンガの描き方のノウハウをも読者に分からせようとする実験的作品である。雑誌連載のマンガについて触れていないのは、「連載長編マンガ」の形式を模索している時期だったからであろう。「ジャングル大帝」(昭和25年11月から連載)その他の連載の反響を待って、「漫画教室」を描きはじめるのは昭和27年4月号からである。「ジャングル大帝」が好評とは言え、同じ雑誌に同時並行してマンガの描き方を読者に教える「漫画教室」を連載するということは、「新しいストーリーマンガ」への強い自負なしにはできることではあるまい。(「漫画教室第6回では「ジャングル大帝」をテクストにして構図の解説をするという離れ技をやってのける。)
「ジャングル大帝」連載開始の翌年、昭和26年には数本の新連載が始まっており、手塚治虫は赤本の流行作家から雑誌を舞台に全国的な人気マンガ家へと変貌し、27年には仕事の場を東京に移すことになる。描き下ろし単行本の刊行は当然、目立って少なくなってゆくが、26年の初頭には前年に描かれたと見られる大作『来るべき世界』(前後編)が刊行されている。『メトロポリス』の完成で長編ストーリーマンガの方法に自信を持った手塚治虫は、描き下ろしの代表作をという意気込みとともに、恐らく「もっと長い長編マンガ」を構想していたと思われる。その結実の一つが『来るべき世界』であり、本来描き下ろしのつもりであった「ジャングル大帝」も雑誌連載に決って以後、そうした構想へと膨らんでゆくことになる。長いストーリーを物語る形式として、せいぜい300頁を限度とする描き下ろし赤本マンガより、雑誌連載の方が好ましいという判断があったかどうかは分からない。雑誌に連載された作品は必ずしもすべてが好評とは言えなかったからである。描き下ろし単行本と雑誌連載長編マンガとの方法の違いということが手塚治虫にとって新しい課題となる。
- 2007/08/14(火) 16:44:04|
- 手塚治虫
-
| トラックバック:1
-
| コメント:3